LOGIN|墨余穏《モーユーウェン》は静かに目を開ける。
またよく眠っていたようだ。 すっかり熱は引いたようだが、汗ばんで衣全体が濡れている。 日はすっかり沈み、玉庵では何本もある蝋燭の光が揺れていた。 (天流会かぁ。懐かしい夢だったな……) |墨余穏《モーユーウェン》は手で首元を拭いていると、そこに蝋燭を持った|師玉寧《シーギョクニン》が現れる。 「起きたか?」 「お! |賢寧《シェンニン》兄、帰ってきてたんだね。久しぶりに懐かしい夢を見たよ。天流会で|賢寧《シェンニン》兄に出会ったこととかさ、俺を湖から救ってくれたこととか。覚えてる?」 「そんな昔の話は忘れた」 「はぁ〜? 忘れちまったのかよ。じゃ、俺が何かしたことも忘れちまったのか? あぁ〜、いい夢だったのに残念だなぁ〜。あ、そういえばあの黒い鴉、天流会に居なかったけど結局どうなったの?」 「確か、出禁になった」 |青鳴天《チンミンティェン》のいる鳥鴉盟は、今も変わらず天台山の管轄から外されているらしい。それを憎んでいるのか、今も他門派への嫌がらせを続けており、今や|突厥《とっけつ》と手を組み出して天台山の守護神を壊す始末だ。 「じゃ、早いとこ|青鳴天《チンミンティェン》を殺さないと」 「お前は大人しくしていろ」 |師玉寧《シーギョクニン》は椅子に座り、料理の入った箱を卓へ置きながら続ける。 「|墨逸《モーイー》、今は本当に何もするな。少し奴らの動向を探りたい」 「分かった、分かった。俺は何もしない。んで、これは今日の夕餉?」 「そうだ」と言いながら、|師玉寧《シーギョクニン》は根菜と肉の汁物と葉野菜を蒸したものを箱から取り出した。 明らかに色合いと匂いからして、師玉寧が作ったものではなさそうだ。 |墨余穏《モーユーウェン》は思わず顔が綻ぶ。 その表情を見た|師玉寧《シーギョクニン》は頬杖をつきながら「さっきより嬉しそうだな」と嫌味ったらしく言う。 「え〜っ? さっきとどこが違うっていうのさ〜。さぁさぁ、|賢寧《シェンニン》兄も食べよう。ほら、蓮根も入ってる!」 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の気分を害さないよう、全力で言ってのけた。 その日の晩は、月が綺麗だった。 |墨余穏《モーユーウェン》は冗談で「一緒に寝る?」と|師玉寧《シーギョクニン》を誘ってみたが、首を振られ全力で断られた。 師玉寧は寝台の横にあるカウチで横になり、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向ける。 まだ寝息がないことを確認して、墨余穏は師玉寧の背中に向かって、小さな声でずっと聞きたかったことを尋ねた。 「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄。何で俺が死んだ後ずっと閉関していたんだ?」 どうしても気になっていた。 自分の知らないうちに|師玉寧《シーギョクニン》の身に何かあったのではないかと。誰も知らないそれなりの理由を本人の口から聞きたかったのだ。 少しの間が続き、ようやく小さな返事が返ってくる。 「気持ちの整理をしていただけだ。お前には関係ない。もう寝ろ。私も寝る」 突き放すように言われてしまった為、|墨余穏《モーユーウェン》はそれ以上踏み込む事ができなかった。 気持ちの整理とは何だろうか? 想い人でもいたのだろうかと一瞬思ったのだが、その思いは固唾と一緒に喉の奥へと押し込んだ。 ただ、ひたすらこちらに向ける|師玉寧《シーギョクニン》の背中を見つめるしかなく、その背中を目線で宥めた。 (おやすみ、|賢寧《シェンニン》兄……) いつか、その背中を抱き寄せられるようにと願いながら、|墨余穏《モーユーウェン》も目を瞑った。 翌朝━︎━︎。 |墨余穏《モーユーウェン》は、あのとんでもなく苦い一葉茶の香りで目を覚ました。 何時から起きていたのか、|師玉寧《シーギョクニン》は相変わらず完璧に身支度を済ませている。 寝台から降りた墨余穏は、髪を一つに結いながら師玉寧のいるところへ移動した。 「おはよ〜、|賢寧《シェンニン》兄。ちゃんと眠れた?」 「うん。お前は?」 「ははっ、俺はどこでも寝れる。でも、|賢寧《シェンニン》兄が隣にいてくれたら、きっ……」 「飲め」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮るように、一葉茶が入った茶杯を差し出した。 墨余穏は苦虫を噛み潰したような顔でそれを受け取り、一気に飲み干す。 (うぅ……やっぱり無理ぃ……) 「少しは口も大人しくしていろ」 |師玉寧《シーギョクニン》にそう言われ、|墨余穏《モーユーウェン》は卓に顔を伏せていると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。 「門主、おはようございます。|一恩《イーエン》です」 「入れ」 |師玉寧《シーギョクニン》がそう言うと、|一恩《イーエン》が恐る恐る入ってくる。 |墨余穏《モーユーウェン》の存在に気づいた|一恩《イーエン》は、墨余穏にも丁寧に拱手をした。 そして柔らかい口調で話し出す。 「お寛ぎのところ恐れ入ります。|徐李方《シュ リーファン》と名乗る男性の客人が門の前に来られています。以前、門主に助けていただいたとかで、至急、門主にお会いしたいと。どうなさいますか?」 「分かった。その|徐《シュ》殿を客間へお連れしろ」 |一恩《イーエン》は「承知いたしました」と言って、俊敏な動きで部屋を出ていった。 |墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》に「知り合い?」と尋ねる。 師玉寧は掛けてあった衣を羽織りながら頷いた。 「昔、町で世話になった爺さんだ。私は少し出ていく。大人しくしていろ」 |墨余穏《モーユーウェン》は「はいはい」と言いながら手を振り、師玉寧を見送った。 一人になった|墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》に想いを馳せた。 出会った時はまだ身近に感じられた師玉寧も、いつの間にか門主になり、天台山の統治を担う一人の重役となった。 どこの門派にも所属していない自分のような身分の低い散士が、こんな敷居の高い場所に居てはいけないのだが、腐れ縁とは不思議なものである。そういうのを全て取っ払ってしまうのだから。茶を淹れてもらうことも、門主の寝台を借りることも、本来ならば絶対有り得ないことだというのに。 |墨余穏《モーユーウェン》は、ほんの少しの優越感と疎外感が入り混じった不思議な気持ちになる。 そんなことを一炷香ほど考えていると、|師玉寧《シーギョクニン》が戻ってきた。 「|墨逸《モーイー》、私は今から|徐《シュ》殿の家に行く。お前も一緒に来い」 「え? 俺も? 行っていいの?」 「いいから早く準備しろ」 「うっす!」と言いながら、|墨余穏《モーユーウェン》は椅子から勢いよく飛び降り、掛けてあった黒色の衣を羽織った。 先に行こうとする|師玉寧《シーギョクニン》を追いかけ、長い石段を降っていく。 寒仙雪門の門を出た辺りで、墨余穏は師玉寧に真相を尋ねた。 「んで? 何が起きてるんだ?」 「|徐《シュ》殿の話によると、流医から貰ったという延命息災の呪符を家の壁に貼ってから、妙な事が身の回りで起きるようになったらしい。夜は苦しくて眠れず、周りでは死人も出ているそうだ」 「はぁ……。よく出回っている変な呪符か? 変な呪符なんてあの|鳥鴉盟《ウーヤーモン》からしか出ないだろ」 「それを一緒に確かめたい。お前は私より呪符の種類に詳しい」 確かに|墨余穏《モーユーウェン》はどこの門派にも所属していない為、様々な呪符を扱うことができる。 この天台山の掟には、どこかの門派に所属している者は、そこから派生した呪符しか扱えないという第三の掟がある。それに違反すると厳しい罰則を受けることになるのだが、墨余穏はそれに該当しない。 しばらく歩いていると、|徐李方《シュ リーファン》の姿が見えた。家の前で二人が来るのを先に待っていたのだろう。 こちらに向かって深くお辞儀をしている。 「師門主と御連れ様。御足労をおかけします。こちらです」 |徐李方《シュ リーファン》の頬は痩せこけ、目の下には酷い隈が広がっていた。酷く疲れた様子で、相当眠れていないのが見て取れる。 二人は案内された家の中に入り、辺りを見渡す。 妖魔がいると普通は空気が澱んでいたりするのだが、そのような気配は一切感じず、特に何の変哲もない普通の家屋だった。 「そこの壁に貼ってある呪符がどうも奇妙でね……」 |徐李方《シュ リーファン》が怯えながらそう言うと、|墨余穏《モーユーウェン》は触ってもいいかと確認して、その呪符を手に取った。 すると、墨余穏は目を見開き驚愕する! この奇妙な呪符は、かつて自分が書いた呪符ではないか! 「これは……」 |師玉寧《シーギョクニン》も呪符を見るや否や、同じく驚愕した。 墨余穏は手のひらにその呪符を乗せ、「夜夜冥冥より|出《いで》よ」と呪文を唱えた。 呪符は青色の光芒を放ち、ビリビリと音を立てて焼け焦げていく。やがて灰になり、ハラハラと床へ落ちていった。 「い、一体。何が起きているのですか……?」 |徐李方《シュ リーファン》は落ち着かない様子で、|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》を交互に見る。墨余穏は床に落ちた灰をかき集め、外の排水へ捨てた。 「徐殿は誰からこれを貰ったの? 流医と聞いているけど、この辺の流医?」 「いや……、それが近頃見なくなりましてね。そこを出た向かい側で薬を売っていたんですが……。名前は|黎明《レイメイ》と名乗っておりましたよ。色んな場所を旅して仕入れていると言っていました」 「知ってる?」と|師玉寧《シーギョクニン》に尋ねるが、師玉寧は「知らない」と首を横に振る。 抜本的解決には至らないが、ひとまずこれで今日の晩からはよく眠れるだろうと、|墨余穏《モーユーウェン》は一枚の呪符を|徐李方《シュ リーファン》に差し出した。 「悪い邪気を吸収する呪符だ。さっきの呪符は悪い邪気を放出する呪符だった。何かあるといけないから、こっちを持ってて」 差し出された呪符を受け取った|徐李方《シュ リーファン》は少し不安気な表情を浮かべたが、「心配には及びません」と|師玉寧《シーギョクニン》が言うと、徐李方は二人に向かって頭を下げた。 「少し様子を見てみて」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、二人は|徐李方《シュ リーファン》の家を後にする。 「|墨逸《モーイー》」 「分かってるって」 二人は呪符の真相を掴む為、三神寳のあった華陰山へ向かうことにした。それから間も無くして天台山は大きな観音廟として新しく建立され、全て寒仙雪門が管轄することとなった。 三神寳と|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は同じ廟で祀られ、かつての|香翠天尊《シィアンツイてんずん》と|深月天尊《シェンユエてんずん》も成仏するという意味で違う廟に位牌が納められた。かつての緑琉門にいた|葉風安《イェフォンアン》たちの位牌も天台山に集約され、いつでも故人を偲べるように配慮した。 それぞれの門派はというと、大篆門の門主・|高書翰《ガオシューハン》は道玄天尊の後を追うようにこの世を去り、後継者がいないという理由で大篆門は閉門となった。 金龍台門は|金冠明《ジングァンミン》が正式に門主となり、新しく家督を担ぐこととなった。あの邪教の鳥鴉盟はというと、盟主の死によって強制的に閉門。罪を犯した者は流刑され、その後も|師玉寧《シーギョクニン》が厳しく罰した。 寒仙雪門では、|墨余穏《モーユーウェン》が正式に寒仙雪門に入内し、師玉寧の伴侶となった。 |墨余穏《モーユーウェン》は相変わらず、玉庵のカウチでゴロゴロしながら、|師玉寧《シーギョクニン》の美しい横顔を眺めている。入内してからというもの、常に一緒にいる為あんなに嫌いだった一葉茶も難なく飲めるようになった。 一葉茶を喉に通すと、|墨余穏《モーユーウェン》はふと尋ねる。「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていたシユって人は誰なの?」「ハンリ殿から聞いた話なんだが、道玄天尊が若き頃に人攫いに遭った若き先代と幼女のハンリ殿を助けたそうだ。それからしばらく天台山で面倒を見ていたそうで、道玄天尊と先代は互いに恋慕を抱いたそうだが、叶わぬ悲恋で終わったらしい。その時抱いた悲しみとこの想いは永遠に忘れないという意味で、道玄天尊の|神漣剣《しんれんけん》と先代の|神翼鏡《しんよくきょう》、それぞれの秘宝に特殊な守護術を封じて三神寳として祀ったらしい」「へぇ〜。なんか深い愛だなぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》はしみじみと目を細めながら、一葉茶を啜った。 庭から入ってきた黄色い蝶が|師玉寧《シーギョクニン》の人差し指に止まる。「想いが強ければ強いほど、失う痛みは大きい。私は道玄天尊のお気持ちが凄くよく分かる」「だから、俺が死んだ後閉関してたんだ……」 黄色い
|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は言うまでもなく、無惨な姿となって力尽きた。 |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の凄まじい威力を見せつけられた|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、その場で喫驚していた。 「いやはや、たまげたね〜。何という威力と人情劇なんだ。素晴らしいよ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》さんよ。守ってきた盟主と実の妹を手に掛けるなんて、|李世《リーヨ》君といい、二人はお心が強いの〜」 ひどく感嘆した様子で拍手をするように、|呂熙《リューシー》は胸の前で鉤爪を鳴らした。 しかし、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》はこれまでの力を使い果たしてしまったのか、突然吐血しその場に項垂れてしまった。一緒に来ていた天台山の道士たちが駆けつけるも、いつ力尽きてもおかしくない様子だ。「滑稽だなぁ。天尊と呼ばれた高貴なお方も所詮はただの人間。人間の裁量などその程度なものなのだよ」 口元を一文字に引き結んで、|呂熙《リューシー》は気怠く言う。凝り固まった首をゴリっと鳴らすと、|墨余穏《モーユーウェン》に向かって濁った目を据わらせた。「さぁ、とっとと終わらせようじゃないか」「そうだな。俺も早く終わらせて、|師玉寧《シーギョクニン》と三礼の儀をしたいからさ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は何の躊躇もなく真顔で言うと、その言葉を聞いていた|李世《リーヨ》は顔を顰め、「こんな奴と三礼なんて世も末だ!」と吐き捨てた。 すると、凍てつく光芒を放った剣が|李世《リーヨ》の頬を掠め、|李世《リーヨ》の背後にあった大木に勢いよく突き刺さった。「減らず口も大概にしないか」 重厚感のある低い声で、|師玉寧《シーギョクニン》は|李世《リーヨ》を凍らすように一瞬で黙らせる。 |師玉寧《シーギョクニン》の気迫に恐れ慄いたのか、|李世《リーヨ》はガタガタと歯を震わせ始め、それ以降口を閉ざした。|師玉寧《シーギョクニン》は念の為、|李世《リーヨ》の身体に字符を貼り付け、身動きを封じた。「あはははっ! 美人を怒らすと怖いってことを肝に銘じておけ、世間知らずの坊ちゃんよ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》はケラケラとそう言い終えると、|豪剛《ハオガン》から譲り受けた剣を鞘からスルッと抜き出し、刃先を|呂熙《リューシー》に向けた。 何があっても|呂熙
懇ろな関係になった|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、二人で飲んだ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の同化呑術の効果も相まって、無敵だと言わんばかりに勢いをつけていた。 鳥鴉盟たちから決闘状が寒仙雪門に届いたのは、あれから数日経ったある日の事だった。 「いよいよだな、|墨逸《モーイー》」 「そうだね、まぁ大丈夫っしょ。俺ら最強だし。ただ、|賢寧《シェンニン》兄の好きだったお姉さんを始末しなきゃなんないからな〜。どうなるんだか」 |墨余穏《モーユーウェン》が横目に冗談めかして言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は一葉茶を啜りながら目を細めた。 「私が好きだった? 何かの間違いではないか? 私はいつも、力を封じ込められてしまっていただけだ」 「え? 見つめていたじゃん。こう、好きで好きで堪らないって感じで〜」 相手を弄るように、|墨余穏《モーユーウェン》はジーっと|師玉寧《シーギョクニン》を見つめる。 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく鼻息を漏らし、やれやれと言った様子で首を横に振った。「動きを止められていただけだ。その時から気づいていた。この人は、人間の動きを瞬時に止める力があるのだと。だから、そこをいかに打破するかが重要だ」 「あはははっ! 余裕だって。あの人たちには弱点があるんだ。それを全面に出せば、皆途端に弱くなる」 眉間に皺を寄せた|師玉寧《シーギョクニン》は、何を企んでいるんだ? とでも言いたげに|墨余穏《モーユーウェン》を見遣る。 「まぁ、後で見ててよ。とりあえず、突厥は崑崙山の爺ちゃん先生たちに任せて、|賢寧《シェンニン》兄はカラス達を頼むよ。そうだ、大篆門の門主は来るの?」 「いや、|高書翰《ガオシューハン》門主は来ないだろう。大病を患ったと知らせを受けた。来れたとしても|黄轅《コウエン》師範が黙っていないはずだ」 「確かに。友人を追い出した門派に情はないだろうね」 |墨余穏《モーユーウェン》は他人事のように言い終えると、書き留めておいた呪符を胸元に仕舞った。 |黄轅《コウエン》に磨いてもらった|豪剛《ハオガン》の剣も持って、|師玉寧《シーギョクニン》の支度を扉の前で待つ。 恐らくこの戦いで、長年続いた天台山の歴史は幕を下ろすだろう。今まで保たれていた統治は完全に崩壊し
目を覚ました|墨余穏《モーユーウェン》は、|黄轅《コウエン》が言っていた翡翠泉へ向かっていた。 ようやく連日連夜の修行から解放された|墨余穏《モーユーウェン》は、込み上げる疲れを感じると同時に、己の心身が一回りも二回りも大きくなっていることに気づく。 体が重くなっていることは薄々気づいてはいたが、こんなにも厚みがあっただろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は自分で、自分の逞しくなった二の腕や太腿を触ってみる。 |黄轅《コウエン》先生の鬼の修行は筋肥大にもなるのだなぁ、と内なる力を全面に引き出してくれた|黄轅《コウエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず感嘆の息を漏らした。 そんな修行の成果を噛み締めながら歩いていると、生い茂る草むらから澄み切った翡翠の色をした泉が見えてきた。 少し奥へと進むと水面を激しく打ちつける滝の音が聞こえてくる。滝の側まで行くと、その辺りは白い湯気が漂っており、墨余穏は指先を泉に入れて温度を確かめた。「お、あったかいじゃないか! 珍しいな、温泉の滝なんて」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を言いながら、衣を脱ぎ始めた。露わになった傷だらけの身体をゆっくり泉の中に沈め、痛みを堪える。 滝の側までゆっくり移動し、|墨余穏《モーユーウェン》はしばらく傷に染みていく痛みと戦いながら泉に浸かった。 すると、ちゃぽんと水面を鳴らしながら何者かがこちらに向かって歩いてくるのが分かった。|墨余穏《モーユーウェン》は女性かもしれないと思い、そっと滝の裏側にある空洞に身を隠した。 歩き方がゆっくりでどこかぎこちない。 女性というよりも老人か誰かだろうと様子を見ていると、白い肌をした長身の美しい男が現れた。 |墨余穏《モーユーウェン》の胸が打ち破るように高鳴った。 どうしてここに……。 どうしてここに、|師玉寧《シーギョクニン》が居るんだ?! |墨余穏《モーユーウェン》は、「何してるんだ? |賢寧《シェンニン》兄!」 と思わず叫ぶ。 目の前に突如現れた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、師玉寧も目を丸くしていた。「傷が治ると聞いた」 「誰に?」「雲師の|黄轅《コウエン》師範に」 記憶が戻っているのだと確信した|墨余穏《モーユーウェン》は、「俺のことは分かるか?」と尋ねた。 すると、|師玉寧《シーギョクニ
翌朝、|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に|金王《ジンワン》から受け取った十包の薬を渡し、修行先である|崑崙山《こんろんざん》へ再び戻ることを伝えた。 「そんな。寒仙雪門には部屋もいくつかありますし、今すぐお戻りにならなくても……」 「いや、時間が無いんだ。|賢寧《シェンニン》兄が回復したら、すぐに鳥鴉盟のところへ行かなきゃならない。今のうちに修行しておきたいんだ」 |墨余穏《モーユーウェン》は先輩らしく、安心させるような逞しい笑みを見せて、|一恩《イーエン》の両肩を軽く叩いた。 そこまでしてどうしてですか、と肩を落とす|一恩《イーエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は頬を掻きながら照れ臭く言う。「好きな人の前ではカッコつけたいだろ」 賢い|一恩《イーエン》は顔と耳を瞬時に赤らめ、「そうですね」と言った。 続けて、何かを思い出したかのように、突然「あ!」と切り出す。「何だよ、急に」「|師《シー》宗主のお部屋を綺麗にしていた時、萎れた一輪の水仙が落ちていました。あれは、恐らく|墨逸《モーイー》先輩が持って来られたものですよね? 拾って小さな瓶に入れておいたら見事に咲き戻りまして……」「……」「……それを|師《シー》宗主の枕元に置いておいたら、昨日それをずっと穏やかな目で眺めてらっしゃいました。ご記憶が戻るのも時間の問題かもしれません」 |墨余穏《モーユーウェン》は少し間を置いて、「……だといいな」と言って小さく微笑んだ。記憶の片隅に残っている物を見ると、過去の記憶が蘇る話はよく聞く。|墨余穏《モーユーウェン》にも、一筋の希望の光が見えた気がした。「じゃ、|一恩《イーエン》。あとは頼んだぞ。何かあれば、また知らせてくれ」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、手を振りながら寒仙雪門を後にし、乗蹻術を放出して|黄轅《コウエン》のいる崑崙山へ向かった。 ◆ ほんの数日で戻ってきた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、|黄轅《コウエン》は驚いた!「|墨逸《モーイー》! もういいのか?」「あ、|黄轅《コウエン》先生! いやぁ〜、それが……」 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を掻きながら、|師玉寧《シーギョクニン》が思った以上に深刻であることを報告した。 そして一番恐れていた黒幕の正体も。「やはり、私の読み通りか。
床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持